2009年12月31日木曜日

カリフォルニア米

カリフォルニア米とはカリフォルニア産の米のことです。多分。

 日系スーパーにはいろいろな種類の米がありますが、六人目の男は地元のスーパーで、KOKUHO ROSEという米を買っています。

 日本のテレビ放送時間のCMで、いろいろな米の宣伝をしているのですが、KOKUHO ROSEも宣伝しています。

 他にもいろいろな種類の米がありますが、日本の米と同じ形で安いので、KOKUHO ROSEにしています。値段は2.26kgで7ドルです。同じ棚に、「錦」という米が置いてあるのですが、こちらは少し高いので、買ったことはありません。

 KOKUHO ROSEは六人目の男にとってはおいしいので満足していますが、いつかは「錦」も買ってみようかと思います。

2009年12月30日水曜日

インフルエンザワクチン

六人目の男は、まだ豚インフルエンザのワクチンは打っていません。
 ワクチン接種の順番が回ってこないので打てていません。

 9月にUCSFからのEメールで、季節性インフルエンザワクチンの無料接種案内の連絡が来たので、9月の下旬に季節性インフルエンザワクチンを打ちました。その連絡Eメールでは、10月の下旬くらいには、豚インフルエンザワクチンが入荷出来るので、また連絡するという内容も付け加えられていたのですが、未だに連絡はありません。

 アメリカでも、当初10月には豚インフルエンザワクチンは1億本以上を出荷予定であったようですが、実際には1200万本くらいしか製造出来ていないと10月のニュースで知りました。

 ワクチンが少ないので、国が接種対象者の順番を決めたために、まだ若い六人目の男の処にはワクチンは回ってきません。

 11月にラボメンバー2人が豚インフルエンザワクチンに罹りましたが、それ以外は発症していないようです。

 豚インフルエンザワクチンはA型なので、季節性インフルエンザワクチンもA型で作製されていれば、豚インフルエンザに対して効果があるために、六人目の男は豚インフルエンザを発症していないのかも知れません。

 豚インフルエンザの症状を発症していない人を対象にして抗体検査をすると、豚インフルエンザに対する抗体が有る人がいるそうなので、7月頃に少し体調が悪かった六人目の男はもしかすると、発症していないだけで、豚インフルエンザに感染していたかもと思っています。

 六人目の男はB型なので、A型豚インフルエンザには罹らないのかも知れません。

 上記はジョークです。本気にしないで下さい。

2009年12月29日火曜日

祝10回

今日、vpn@UCSFにログインして、Web of Scienceというサイトで学位申請の基になった論文が、どれくらい引用されているかを検索すると、10回引用されていた。

 約1年で10回引用された論文ということで、他の研究者が六人目の男の論文を読んでいると思うと少し嬉しい。

 研究者として認識されていると思うと、少しやる気が沸いてきた。

2009年12月28日月曜日

ラボでの研究

現在、六人目の男が所属するラボでは、メンバー個人にそれぞれの研究テーマが与えられています。

 研究グループはありますが、研究テーマは個人で異なりますので、ラボメンバー同士が同じ研究をするということはありません。

 ボスも、メンバーが行なってる研究を把握しています。

 アメリカに来る前には、研究データを盗まれないようにしないと、他のポスドクが勝手に論文にして投稿することもあるなどの話を聞いていましたが、今のラボではそのようなことは起こらないと思います。
 もし、そのようなことが起これば、ボスが怒ると思います。

 あるラボでは、同じ研究テーマを、複数のポスドクに与えて、研究を競わせるボスもいるようですが、その場合には誰が筆頭著者になるのかなどの問題が起こりますが、これはポスドクにとっては死活問題でしょう。筆頭著者になれたポスドクはハッピーですが、なれなかったポスドクは地獄だと思います。

 六人目の男が所属するラボでは、このようなことは起こりませんが、研究テーマに対する結果は担当しているポスドク1人の能力次第ですので、データが出るかどうかはポスドクの責任です。

 ポスドクの研究者としての能力があるものは論文が出せるシステムで、全ては自分の働き次第ですので、六人目の男は無知に鞭を打って働いています。

2009年12月27日日曜日

博士号と仕事 其の弐

博士号を取得するためには、通常は大学院に5年くらい行かないと博士号は取れません。

 博士号取得後、企業などに就職する安定した職を除くと、博士号持ちは助教かポスドクとして働くと思います。大学院終了後に助教になれる人はかなり少ないと思います。いくら業績や能力があっても、助教のポストが空いていないと、どうしようもないので、運も必要ということかもしれません。

 ポスドクになった博士号所持者は、数年間で研究業績を出して、助教に就けるものや、民間企業に行く人も出てくると思います。ポスドクから抜け出せずにポスドクを続ける人の方が多いかもしれません。

 最近思うことは、ポスドクから抜け出せないなら、大学院からポスドクまでの研究生活よりも、その時間を資格の取得などに費やしたほうが良かったと思うのではないかということです。

 大学卒業後に、司法試験などの資格のために10年間勉強しても32歳くらいです。
 理系の学部卒業生なら弁理士という資格もありだと思います。

 弁理士試験が難関な試験ということは理解していますが、ポスドクから抜け出せないポスドクが10人いて、その10人が大学院に行かずに、アルバイトをしながら10年間資格取得の勉強をしたなら、何人くらいが合格するでしょうか?

 ポスドクになる人は旧帝大系や国立大学の卒業生が多いと思いますので、勉強は得意な人達だと思います
 ポスドクから抜け出せない選択肢と弁理士という選択肢を天秤に掛けたときの、リスクを考えると、どうでしょうか?

 六人目の男は、研究者を目指す大学院生や大学生にアカデミックポストに就くのは非常に困難なので、上記のようなことも考えたらどうだ、このような進路もあるとアドバイスしたいと思います。
 
 しかし、「自分はどうしても、研究者になるんだ」という、大学院生や大学生や高校生の方々もいると思います。そのような方々への六人目の男からのアドバイスですが、「絶対、研究者として成功するだという思いで、結果を出すように研究に取り組みなさい」ということでしょうか。

 このアドバイスは自分自身へのものですが。

2009年12月26日土曜日

博士号と仕事 其の壱

今日は大学院に進学することについて、思うところを書きたいと思います。
 
 六人目の男は大学卒業後に大学院に進学し、5年間で学位を取得しました。
 学位が取得出来る基準は大学で異なると思いますが、一般的には筆頭著者の査読付き論文が一報以上だと思います。
 また、Impact factorが何点以上という基準や、所属研究室の指導教官がある一定以上の論文でないと学位申請を認めないこともあると思います。

 六人目の男は、2008年4月に論文がアクセプトされ、その論文のImpact factorが学位取得の基準以上だったので、学位取得に問題がなくなり、次のステップとして指導教官にポスドク先を紹介して頂きました。
 
 博士号を2009年3月に取得して、現在はポスドクです。 

 日本における博士号の有用性は、アカデミックポストに就くには必要だと思いますが、それ以外には使えない資格だと思います。日本の企業の研究員には博士号は要求されませんし、修士号の方が好まれることも多いようです。

 海外の企業の研究者と仕事をするときには、日本の企業の担当者も博士号がないと相手にされないので、日本の企業でも部長クラスでは博士号を持っている人が必要なようです。また、六人目の男がその会社で働く人から聞いた話では、世界でトップの製薬会社の日本支社の部長職には博士号がないとなれないそうで、その会社の本社の規則のようです。実際に、能力があっても博士号がないために、課長までしか昇進できないので、どうにか博士号がほしいが、学部卒業なので、社会人枠で大学院に進学したいが博士号を取得するまでの道のりが長いので、躊躇する人もいるそうです。

 六人目の男は博士号を持ってるので、部長になれるかもしれないと淡い期待を抱きますが、その会社に入ることが難しいと思います。ポスドクだから、会社勤務経験がないので、職歴がないのと同じと判断されるようですね。文部科学省はポスドクはフリーターと同じと考えているので、仕方ないかもしれません。

2009年12月25日金曜日

オリオン座

今日はクリスマスイブで、ボスは帰り際に「メーリークリスマス」と言った。
 また、インド人ポスドクは「See you next year」と言って帰って行った。

 家路の帰り道に、ふと空を見上げると、星が出ていた。
 ここ数日は曇り空が多かったので、星を見ることはなかったように思う。

 そういえば、日本にいるときは毎年、冬の夜に出るオリオン座を見ながら家に帰っていたことを思い出し、オリオン座を探したが、街の明かりでオリオン座を見ることが出来ないのか、探した方角が悪いのかはわからないが、オリオン座を見つけることは出来なかった。

 また、機会があるときに夜空の中から探そうと思う。

2009年12月24日木曜日

移り行く日々

今週、日本の地元の友人から写真が添付されたeメールが送られてきた。
 
 その友人に第一子として男の子が生まれたので、その写真であった。
 
 去年、その友人の結婚式に新郎側の友人として参列すると、新婦側に高校の部活の先輩もいたので、何故いるのかと聞くと、「オレの嫁の従兄弟が、新婦だ」と言われた。世間は狭いなと感じた。

 結婚式の披露宴の時に、その先輩に「今も学生か?次はどうするのか?」と聞かれた。結婚式に呼ばれていた友人が、「六人目の男は、4月からサンフランシスコに行くんですよ」と答えた。その先輩が「俺も、サンフランシスコ行ったことあるよ。あそこは良いとこだ」と言っていた。

 六人目の男が4月にサンフランシスコに来たときに、泊まっていた宿は日本人が利用するところで、過去のいろいろな写真が貼ってあったが、その写真の中に、その先輩が大学生のころの写真があった。その先輩も、サンフランシスコに来たときに、同じ宿に泊まっていたようだ。

 六人目の男が人の親になるのは当分先のことだろう。
 または人の親にはならないかもしれないが、来年はオジサンになるらしい。

2009年12月23日水曜日

クリスマス休暇

12月に入ってから、建物内でのクリスマスの飾りを目にするようになり、帰宅するときに街中を歩いていると、イルミネーションを見ることも多くりました。
 
 先週から、お昼ごろに建物内を歩いていると、所々でクリスマスパーティ-を行なっています。

 UCSFは24日と25日はクリスマス休暇で休日になっています。

 六人目の男が所属するラボでも、明日の昼にクリスマスパーティ-を行い、プレゼント交換を行なうので、そのプレゼントも準備しました。

 ラボでクリスマスパーティ-をすることはアメリカ的なのでしょうね。日本のラボではクリスマスパーティ-をしない方が多いと思いますが、その代わりに忘年会はすると思います。

 去年の今頃、日本のラボで行なった忘年会から1年経ったと思うと、時間が経つのは早いですね。

2009年12月22日火曜日

そういうことか天気予報

アメリカの天気予報は当たらないと、このブログに書きましたが、昨日の夜に天気予報をテレビで見ていて納得しました。その理由は「天気予報が大雑把過ぎ」です。

 カリフォルニアは西海岸なので、太平洋にある気圧配置などを天気予報で説明し、雨雲の前線がこのように動くので雨が降ると、キャスターが言っていましたが、昨日ある大事なことを思い出しました。

 カリフォルニア州は日本の国土より面積が大きいということです。

 日本の国土より大きいカリフォルニア州の天気予報を説明するなら、もっと詳しく分析して説明しないと、ピンポイントの天気が当たらないのではないかと感じました。

 これも、アメリカか、と思い天気予報が当たらないことについて、勝手に納得しました。

2009年12月21日月曜日

家族はいるのか?

六人目の男にとっては土曜日や日曜日もworking dayで仕事をするのですが、六人目の男がこのラボで働き出して、めったに土曜日や日曜日に仕事をしないラボメンバーに会ったときに聞かれたことは、

 「家族はいるのか?」

でした。この質問をして来たのは2人の女性ポスドクで、それぞれの女性ポスドクには別の日に会ったのに、同じことを聞かれました。

 この2人の女性ポスドクは結婚して子供もいるので、土曜日や日曜日も働くことは考えもしないのでしょう。六人目の男は、この質問に対しての答えは、

 「オレは独り者で、ロンリーボーイだ」

と答えます。女性ポスドクの1人は、六人目の男が独り者だとわかると、

 「それは良いことだ」

と言いました。彼女達の考えでは、土曜日や日曜日に家族の相手をしないで、仕事をすることは良いことではないと認識しているのかもしれません。

 現在のボスも、

 「研究よりも、家族の方が大事だ」

と言っていますが、現在の六人目の男にとっては仕事以外にすることがないので、仕事が一番大事です。

 大学四年から研究中心の生活で、このような生活も7年目です。六人目の男が大学院生のときに、研究室に入ってきた後輩にあたる大学院生は平日しか実験していませんでしたが、そのような大学院生もいますが、研究は結果が全てなので、結果を出すには毎日研究した方が結果が出ると思っている六人目の男は、普通の人から見ると少しおかしいようです。

 六人目の男は、「実験結果を早く確認したい」と思ってしまう、せっかちな性格なので、そのためなら土曜日や日曜日も実験することは苦痛ではありません。

 六人目の男のように年中実験している能無し人間と、平日しか仕事をしない人間では、どのようなことが違いが生まれるのかを証明することは面白いかもしれません。

2009年12月20日日曜日

名将?

ある日、六人目の男が研究室で休憩がてら、インターネットでイングランドプレミアムリーグのアーセナルの日本語のサッカーの記事を読んでいると、インド人ポスドクが話し掛けてきました。

 そのインド人ポスドクはFootballが好きで、アーセナルのファンでした。

 アーセナルの監督はアーセン・ベンゲルという名将で、アーセナルの監督になる前は名古屋グランパスエイトの監督をしていました。

 このアーセナルというチームのコンセプトは、若くて有望な選手を集めて、ベンゲル監督が若い選手の才能を発揮させて、スペクタクルなFootballをすることです。

 このアーセナルの試合での先発11人の平均年齢は24歳や、時には20歳くらいのときもありますが、イングランドプレミアムリーグで上位4位以内に入る強豪です。

 このインド人ポスドクとは、この後もヨーロッパのFootballの試合結果について話をするようになりました。

 六人目の男が所属するボスはアーセン・ベンゲル監督のように若いポスドクの才能を伸ばす名白楽でしょうか?

 ポスドクはボスからの教育には期待せず、少ない才能を自分で引き出さないといけないように思いますが、どうでしょうか?

 Soccerは日本、韓国、アメリカだけで、ヨーロッパではFootballといいいますが、それよりも、研究室で仕事と関係ことをすることの方が、問題だと言われそうですね。

2009年12月19日土曜日

異国の少数派

昨日、CNNで日本の事を放送していました。その題名は

 「男はバーチャルキャラクターと結婚した」

 といもので、日本のある若い男性がニンテンドーDSのソフトの二次元の女性キャラクターに恋をしているという内容でした。

 日本人である六人目の男は放送を見ていて、故意に不自然なところもあるなと感じていましたが、疑問も持たずにこの内容を見たアメリカ人は、間違った認識を持つのではないかと考えてしまいました。

 異国の大多数ではない、少数のことを大きく取り上げると、その国を間違って伝えてしまうのではないかと考えてしまいました。

2009年12月18日金曜日

それぞれの防寒

サンフランシスコは先週から平年並みの気温に戻りました。

 2週間前は最高気温が10℃以下の日がありましたが、半袖で過ごしている人も見かけました。

 夏でもサンフランシスコは寒い日がありますので、ジャケットなどを着ている人、Tシャツ半袖の人、ダウンジャケットを着ている人が、バス停で待っているのを見ると、不思議な感じです。

2009年12月17日木曜日

オーナー

現在のラボで、働くようになって感じることは、PIとはその研究室のオーナーのようだという事です。

 PIは研究室のボスで、一番の責任者なのでオーナーなのは当たり前と言われればそうなのですが。

 アメリカのラボの運営は、ボスが持って来る研究費で全てが賄われます。その研究費で、ポスドクの給料を支払い、実験に必要な試薬や、機器を購入します。

 そのために研究費を取れないボスの研究室は消滅します。

 同じ研究室のポスドクでも、それぞれの給料は異なり、ボスとの交渉で給料が上がったりします。
 
 PIの一番大切な仕事は、研究費を取ってくることです。

 PIは最先端の研究知識を持っていなくても、優秀なポスドクを雇い、自由に研究をさせて、レベルの高い雑誌に論文をアクセプトさせればOKなのです。その業績で、新しい研究費を取ることが出来るという良い循環が生まれます。

 上記は極端な話ですが、六人目の男が所属しているラボは、そんな感じです。
 
 PIはポスドクを育てるという姿勢は必要ではなく、優秀なポスドクをリクルートする能力が大切かなと思います。現在のラボのPIは結果を出したポスドクに対しては援助を惜しまないという姿勢です。

 ポスドクは研究者として試されている立場なので、結果が出ないポスドクは研究以外の道に進むしかないように思います。
 
 アメリアのPIはポスドクの給料をコントロールできるので、六人目の男のボスを見ていると、PIとはプロスポーツチームのオーナーのようだと感じます。

2009年12月16日水曜日

おぼっちゃまくん

六人目の男が、小学生のころに「おぼっちゃまくん」というアニメをテレビで放送していました。

 おぼっちゃまくんは「歩く身代金」と言われているほどの金持ちで、小学生のおぼっちゃまくんの月の小遣いは1500万円という設定で、その1500万円の小遣いを直ぐに使ってしまうほどの金持ちでした。
 
 おぼっちゃまくんの父親は総理大臣だったと思います。

 アレ? 最近、こんな話を聞いたぞ? アレ?

 こんなことが現実にあるのかと思ったりするのは、六人目の男だけでしょうか。

2009年12月15日火曜日

お米の炊き方

六人目の男はアメリカ使用のSANYOの炊飯器を使用して御飯を炊いていますが、水を多めに入れた方が御飯が美味しく炊けると思います。

 お米が三合で、水も三合分を入れると、御飯がパサパサのように感じますので、お米が三合なら、水は四合分入れて炊いたほうが、御飯がふっくらになると思います。

 多分、アメリカで御飯を炊くときはこれが良い方法だと、勝手に思っています。

2009年12月14日月曜日

vpn@UCSF

論文の検索はPubMedで行なうのが普通ですが、abstractは読めても、本文を読めない雑誌の方が多いと思います。

 UCSFの研究者はvpn@UCSFというサイトにパスワードを入力していくと、PubMedやWeb of Scienceなどのサイトがあり、そのPubMedのサイトを経由すると、殆どの雑誌を読むことが出来ます。

 しかし、中にはダウンロード出来ない雑誌もあります。インパクトファクターが1点や2点の雑誌は読めないことがあります。UCSFはこのようなレベルの雑誌とは契約していないのでしょうか。

 インパクトの高い雑誌だけを読むようにという暗示でしょうかね。

2009年12月13日日曜日

お金持ちラボ

六人目の男が所属しているラボはお金持ちのラボです。

 ラボメンバーには個人用のサーマルサイクラーと遠心機が与えられます。

 ラボの共通機器はReal-Time PCR、蛍光顕微鏡、フローサイトメトリー、ナノドロップ、マルチ機能プレートリーダーなどがあります。

 細胞を自動でカウントする機械などもあります。

 六人目の男がラボでの研究を立ち上げる準備として、western blotに必要な機器も個人用に買ってもらいました。

 日本にいたときはPBSなどの試薬は作っていましたが、現在のラボでは10xPBSなどを購入します。TAEやwestern blotに必要な試薬も全て購入します。

 また、ある遺伝子を発現するプラスミドがほしいときは、日本にいたときは自分で遺伝子をクローニングしていましたが、現在のラボではその遺伝子を発現するプラスミドをメーカーから購入します。

 現在のラボは商品で売っているものは手に入るので、日本にいたときよりも、実験が進みやすいと感じていますが、現在のラボから他のラボなどに移ったときの反動が恐ろしいと思っています。

2009年12月12日土曜日

ポスドクの口癖?

六人目の男はポスドクをしているのですが、その次のポストを得るためにはレベルの高い論文を発表して、業績を作らないと、研究者として生きてはいけません。

 六人目の男は、江頭2:50が好きなのですが、彼の名言は、

 「1クールのレギュラーよりも、1回の伝説」

 ですが、ポスドクをしている人達の口癖は、

 「3本のJBCよりも、1本のNatute」

 でしょうか。Natureはかなりレベルが高いので、

 「3本のJBCよりも、1本のNatute Cell Biology」

の方がが現実的でしょうかね。

2009年12月11日金曜日

chance of rain

11月中旬くらいから肌寒くなり、先週からは一気に気温が下がった様子です。

 昨日のサンフランシスコの最高気温は9℃で、最低気温は1℃でした。

 オークランドの山では雪が降ったそうですが、こんなことは最近はなかったとラボの方が言われるほど、例年より気温が低いようです。

 毎朝、テレビで天気予報を見るのですが、雨が降ると予報されても、サンフランシスコでは降らないことの方が多いですが、サンフランシスコでは雨が降っていないが、少し離れたところで雨が降ることが多いようです。

 雨が降らないほうが快適なので良いのですが、カリフォルニアは水不足のためか天気予報では雨が降るマークのところに「chance of rain」と表示されていのを拝見します。

2009年12月10日木曜日

テレビ 其の参

日曜日に放送されるドラマはフジテレビのドラマで、日本より1クール遅れていると思います。

 7月-9月は「BOSS」で、今月から「救命病棟24時」が始まりました。日曜日に放送される番組には英語の字幕はありません。

 「救命病棟24時」には、学会で行ったパシフィコ横浜の映像が流れていますので懐かしく思い、今度はいつあの場所で学会発表できるのかと考えてしまいます。

2009年12月9日水曜日

テレビ 其の弐

土曜日に放送される「たのしい幼稚園」、「大河ドラマ・天地人」、「青汁」は日本語の放送ですが、英語の字幕で出ていますので、これが英語の勉強になります。

 大河ドラマでのセリフも、英語ではこのような簡単な言葉になるのかと参考になるのですが、英語に訳したときに、日本語の深みのようなものは伝わらないのではないかと感じます。

 日本語には敬語、謙譲語などがありますが、それを英語に訳すと、あまりにも素っ気無い感じの英語になってしまうので、そのように感じるのかもしれません。

 外国を理解するには、その国の言葉と文化がわからないと、相互理解が難しいのかなと思います。

 大河ドラマ・天地人は日本よりも5話以上遅れて放送されています。渡米直前の3月の夜8時くらいは研究室で、データやサンプル整理で研究室にいて、大河ドラマは見ることが出来なかったので、六人目の男にとっては、大河ドラマを切れ目なく見ることが出来ているので良いことです。

2009年12月8日火曜日

テレビ 其の壱

六人目の男はComcastというケーブルテレビでテレビを見ていますが、サンフランシスコでは日本語の放送番組を見ることが出来ます。

 平日は朝の7:00-7:30にフジテレビのニューヨーク支局がニュースをやっています。
 
 土曜日は夜の9:00-9:30が「たのしい幼稚園」、9:30-10:30が「大河ドラマ・天地人」、10:30-11:00が青汁の宣伝番組。
 
 日曜日は夜の8:30-8:50がNHKのニュース、8:50-9:15が「3分クッキング」を2本、9:15-9:30が「ハローレストラン」というサンフランシスコのレストランを紹介する番組で、9:30-10:30がフジテレビの連続ドラマです。

 渡米当初は水曜日から金曜日の夜の11:30-12:00までNHKニュースがありましたが、10月くらいで終了したようです。また、数年前までは日本語のニュース番組の時間は長かったそうですが、最近では以前の半分くらいになっていると聞きました。

 サンフランシスコ周辺の駐在員が減っているために需要が減少しているのと、24時間日本語放送が見れるケーブルテレビがあるのも関係しているためかもしれません。

 六人目の男が契約しているケーブルテレビでは、中国語やスペイン語の専用チャンネルもありますが、日本語の専用チャンネルはありません。中国人やメキシコ人が多いために、専用チャンネルがあると思うのですが、日本語専用チャンネルがないのは少しさみしい気もします。

2009年12月7日月曜日

研究利点

六人目の男が大学院生時代に、アメリカから帰って来られた教員の方から聞いていたことだが、こちらで研究を開始して認識したことは、実験に使用する試薬やキットなどが、日本で購入するよりも安いことである。

 例えば、Real-Time PCRで使用するApplied BiosystemsのTaqMan® Gene Expression Assays は日本で購入すると、定価が29,800円くらいだったと思うが、こちらのラボでは140ドルくらいで購入することが出来る。他の試薬なども、日本で購入するときの価格の50%から70%で購入可能である。

 また、注文して手元に届くまでの期間であるが、TaqMan® Gene Expression Assays を注文するときは、日本でもアメリカでも、オンラインで注文するが、手元に届くのは日本では1週間くらいで、アメリカでは1日か2日あれば手に入る。日本から注文しても、Applied BiosystemsはアメリカからTaqMan® Gene Expression Assays を発送するので、これくらいの日数の違いが生まれる。

 六人目の男が大学院生時代に、欲しい試薬などが日本の会社に在庫がない場合はアメリカから取り寄せるので、2週間待たされるのは、よくあることであった。

 日本とアメリカで製品の価格差が生まれるのは、アメリカで製造した製品を輸入しているので、輸送量などが発生するのはわかりやすいが、一番の違いは流通であると思う。

 日本での注文経路は、大学の契約係りが、商社に発注し、その商社が製品を扱う会社から試薬を取り寄せて、商社が試薬を大学の研究室に持って来る。
 アメリカでは、大学の契約係りが、製品を扱う会社に直接発注して試薬を取り寄せて、試薬は大学内の荷物を受け取る部署に送られてきて、その部署の人が研究室まで持って来ます。

 日本では流通に商社が入っている分だけ、価格が上がる仕組みになっていると思います。

 商社の人からの有用な情報などが役に立つことも多くありましたし、インキュベーターの二酸化炭素のボンベの交換をやってもらうのは助かっていましたが、アメリカでは自分でボンベを交換しないといけませんが、今の日本からこの流通経路を変えるはいろいろと難しいのではないかと思います。

 試薬の価格や試薬が届くまでの時間を考慮すると、同じ額の研究費であれば、アメリカの方が研究が進みやすいのではないかと思っています。

2009年12月6日日曜日

ポスドクって

六人目の男の立場はポスドクであります。
 UCSFではPostdoctoral fellowという身分で研究をしています。

 アメリカで自分の研究室を持つボスのことをPI(Principal Investigator)と言いいますが、このPIになるためには、大学院で博士号を取得し、次にポスドクという立場の時に良い研究業績を残した人が、PIに採用されるのが基本的な流れだと思いますが、日本ではポスドクというと負け組みの代表のような扱いのように感じます。

 PIになることが出来るポスドクは10人に1人か2人くらいでしょうか。もっと少ないのでしょうかね。研究者としての篩いに掛けられているのが、ポスドクという立場なのかもしれません。

 アメリカの民間の企業で研究員として働くためには、博士号を取得して、ポスドクを経験した人が応募するのが基本のようで、企業の研究員にもポスドク経験が求められるのは、大学院時代とは異なる研究室で、研究を行ない結果を出す研究員は、研究能力があり協調性があると評価出来るためのようです。
 アメリカの民間の企業で研究員として働くためには博士号は必須で、修士号では技術員としてしか採用されないのが基本のようです。

 日本ではポスドクとは常勤職に就けない人が、非正規研究員として働く身分として認識されているようで、アカデミックポストを目指すポスドクが欲してやまない助教という常勤職には、博士号を取得して直ぐに就ける人がいることから、このように認識されるのも仕方がないのかもしれません。

 六人目の男は大学院時代の指導教官から、「研究するならアメリカに行け」と事あるごとに言われて、何も考えずにポスドクをするためにアメリカに来たのですが、ポスドクになった以上は、次のポストを得るためには論文を出さないと、どうしようもないわけで、結果を出すしか前に進めない立場です。

 研究者になりたいなら、ポスドクという谷底の立場から這い上がって来いという、大学院時代の指導教官からの激励ということでしょうかね。

2009年12月5日土曜日

クレジットカード

アメリカで収入がある六人目の男はドル建てカードを作った方が便利なので、クレジットカードを作った。
 
 アメリカで働く日本人向けのクレジットカードはANAのANA CARD U.S.AというVISAとJALのプレミオカードというMaster Cardがあるが、六人目の男はANA CARD U.S.Aというクレジットカードに申し込んだ。

 オンラインで申し込みをして、本人確認の電話を受け取ってから、1ヶ月くらいでクレジットカードが届いた。

 クレジットカードがあると現金をあまり持たなくて良いので便利だ。スーパーで20ドル札で買い物をしたときに、その20ドル札をキャッシャーが光に透かして、お札を確認したことがあるが、そんな不愉快な思いはしなくて済むだろう。 

 現金は少しは持っていないと不便なのだが、アメリカではスーパーやドラッグストアで、デビットカードやキャッシュカードで支払いができるが、レジがATMに繋がっているので、その時に60ドルや40ドルくらいなら、支払いのときにお金を要求できるので、これまた便利だ。

 クレジットカードの限度額も予想した額より多いので満足している六人目の男であった。

2009年12月4日金曜日

小切手

アパートが決まって住所が確定し、SSNも手に入れたので、銀行に行って、住所とSSNを伝えた。

 住所が決まったので、小切手を発行してもらうことにした。銀行口座を開いたときに、送られてきた小切手は仮のもので、正式な小切手には住所や個人が特定できる番号が記入されている。

 申し込みをして10日くらいでアパートに送られて来た。毎月の家賃は小切手で支払うことになっているし、クレジットカードが届くまでの公共料金の支払いは小切手ですることにした。

 初めて小切手を振り出すときには、慎重に見本を見ながら書いたが、これでお金は引き落とされるのかと思ったが、オンラインで口座を確認すると、checking口座から無事にお金が引き出されていた。

2009年12月3日木曜日

SSN

アメリカで働くにはSSN(Social Security Number)を取得しなければなりません。
 ソーシャル・セキュリティ・ナンバーとは個人に与えられた番号で、この番号で個人も特定できるため重要なものです。

 UCSFのDepartmentの担当者から、入国して2週間後くらいに、Social Security Officeに行ってSSNを申請するように言われていたので、Social Security Officeに行き、受付番号のレシートを取り、Officeに置いてある申請用紙に必要事項を記入して、呼ばれるまで待ったのですが、1時間以上は待ったように思います。

 番号を呼ばれて窓口に行って、申請用紙とパスポートとDS-2019を見せると、担当者がパソコンにいろいろ入力して終わりでした。

 SSNを申請して10日後くらいに自宅のアパートにソーシャル・セキュリティ・カードが届き、プラスティクではなく、一枚の薄い紙なので、大切に保管しないといけません。

 申請用紙には母親の旧姓を記入する欄がありました。また、銀行の申し込みにも母親の旧姓を記入する欄があり、アメリカでは本人確認のために母親の旧姓を利用することは一般的で、誰から生まれたかという事実はわかりやすいためだそうです。そう考えると、父親は肩身がせまいですね。

2009年12月2日水曜日

ID Card

UCSFに関係する人達はIDカードという名札のようなものをUCSFのポリスで作らないといけません。そのカードが見えるようにしていないと、ポリスに尋問されるようです。

 UCSFのIDカードを発行してくれるポリスの部署に行き、パスポートとDS-2019を見せると、データベースで確認し、写真を撮り、カードがその場で発行されます。対応してくれた男の人は物静かな感じの人で、入管審査で対応した人の感じが悪かったのですが、アメリカにもこのような感じの良い人がいるのかと感心しました。

 日本の大学との違いはポリスが大学にいることで、最初は違和感がありましたが、これもアメリカかと思いました。

 スーパーにも常時ポリスが入り口にいますので、ポリスがいることで問題が起こらないように抑止力になっているようです。

 アメリカのポリスは1人で行動できるところが、日本と違うそうです。日本の警察は2人で行動するので、コストは2倍ということでしょうか。

日系のスーパーに行ったときに、食べあるきながら入店した客に、アジア系のポリスが「ここは、飲食禁止ですよ」と日本語で言ったのが印象的でしたが、入店した客は中国系のように見えたので、ポリスが言ったことが通じたかはわかりませんが、食べることは辞めたようでした。

2009年12月1日火曜日

預金残高証明書

預金残高証明書を英文で作成しておくことは、渡米するための準備の一つとして良く言われることである。

 六人目の男も銀行で預金残高証明書を英文で作成したが、実際には一回も要求されることはなかった。

 DS-2019を取得するためのapplication formに預金金額を記入する欄があり、銀行で作成した預金残高証明書の額を記入し、appilaction formを担当者にeメールで添付ファイルとして送ったが、預金残高証明書は送っていないが、DS-2019は問題なく発行された。これは多分、UCSFからの給料であれば生活するのには問題ないという理由から、預金残高証明書などのものは要求されなかったと思われる。六人目の男は独り者なので、UCSFからの給料だけでも生活できるが、家族がいる状態であれば、預金残高証明書なども要求されたであろうと思われる。預金残高証明書に要求される額は1人が1年間で100万円と聞いているので、家族4人が2年間なら800万の預金残高額が必要とされるそうだか、大事なことはアメリカで生活できるだけのお金の保障を証明できれば良いらしい。

 ビザ発行のために大阪領事館に行った時も、預金残高証明書は持参したが、面接官などには見せていない。要求されれば、提出しようと考えていたが、何も言われかった。「給料はどこから出るのか」と聞かれたので、「UCSFが払う」と言っただけであった。DS-2019にはUCSFからの2年間の給料額が記載されているので、大丈夫だったようだ。

 サンフランシスコ国際空港での入管時には、「何しに来たのか」と言われたので、「UCSFで働く」と言っただけで問題なく入国出来た。

 アパートの見学に行った時に、大家に預金残高証明書を見せたが、それには興味はないようで、六人目の男が受け取る給料を証明するように要求されたので、DS-2019に記載されている給料額を見せて、ボスからの手紙にもその額を書いてもらった。大家はDS-2019に記載されている給料額が2年間のものか、1年間のものかは理解していなかったかもしれないが、毎月家賃をきちんと支払っているので大丈夫だと思う。

 預金残高証明書が要求されるかどうかは、ケースバイケースのようである。

2009年11月30日月曜日

アパートを決める

アメリカに来て一番重要なことは、家を確保することなので、最初の仕事はアパートを探すことであった。
 
 サンフランシスコのアパートは渡米前に聞いていた通り、寝室1部屋とリビングからなる1 bed room の家賃は低くて1200ドルという感じであった。家賃には水道代とゴミ代が含まれているのが普通のようである。台所には冷蔵庫が付いているのが一般的で、電子レンジもついてくるところもあるようだ。

 六人目の男はcraigslistという掲示板でアパート情報を見て、3件の大家に電話でアポイントを取って、アパートを実際に見学して、その場で申し込み書を書いて大家に渡した。3件の大家全てがアパートを貸してくれると言ってきたが、一番気に入ったところのアパートを借りることにした。申し込み者が数人いたらしいが、自分に貸してくれるというので、手付金として200ドルを払うように言って来たので、アパートに行って、手付金を払った。
 その時に、4月分の家賃とdeposit(頭金)込みの3200ドルをcashier checkで払うように要求されたので、Japan townにあるUnion Bankでcashier checkを作ってもらった。Union Bankでは日本人の行員がいる支店があるので、日本語でお願いが出来るので楽である。cashier checkとは発行する銀行が額面のお金を保証し、受取人の名前が記入されている小切手のようなものである。
 また、六人目の男の雇い主であるボスの手紙も持って来るように要求された。手紙には六人目の男の年収、ボスの名前と電話番号が書いてあり、手紙の用紙はletterheadであることが要求されたので、ボスに書いてもらった。letterheadとは大学や企業の名前やロゴが入っている用紙のことである。

 実際に借りるアパートで大家の手書きの契約書にサインし、cashier checkとボスからの手紙を渡して契約が成立した。1ヶ月の家賃は1400ドルの1 bed roomを1年契約した。家の鍵をもらい、手付金の200ドルは返してもらった。借りたアパートには、冷蔵庫と電子レンジが付いていた。

サンフランシスコでの住みかも決まり、安心した六人目の男であった。

2009年11月29日日曜日

霧とタンポポ

渡米して間もない日の14時頃に、空を見上げると白い煙のようなものが見えて、だんだんとその煙の量が多くなってきたので、「誰だ、ゴミを燃やしているのは?」と思ったが、良く観察すると、煙ではなく、霧であることがわかった。

 サンフランシスコは霧が有名であるが、霧は早朝や夜に出るものという感覚なので、霧が昼から出るとは予想外であった。

 8月や9月は朝、家を出ると霧が濃かった。また、朝は霧がなくても、昼を過ぎると霧が出て、霧の中を歩くこともあった。

 8月や9月は日本の感覚だと夏であるが、今年のサンフランシスコの8月と9月は渡米して来た4月よりも寒いのではないかという日が多かった。10月のサンフランシスコは年間で一番気温が高いと聞いていたが、その通りであった。

 11月になると気温は下がり肌寒くなったが、4月から11月まで、ずっと道端にはタンポポが咲いてた。これはサンフランシスコの気温の変化が小さいことの象徴のように感じた。

2009年11月28日土曜日

渡米の日

4月のある日、成田空港からサンフランシスコ国際空港に行くANA便に乗り、9時間のフライトは映画を見るなどして楽しんだために、一睡も出来ずにサンフランシスコの地を踏んだ。

 研究室の方が迎えに来て下さり、その方の車でUCSFの本部があるParnassusに行き、SISS (Services International Students & Scholars)という部署に行って、簡単な書類書きを行なってUCSFに来たことを伝えた。

 次に、DS-2019取得のために書類のやり取りをしたDepartmentの担当者のところに行き、2時間くらい書類にサインをするなどして、いろいろな説明を受けた。自分が死んだときの財産は誰に上げるとか、死んだときの遺体は日本に送ってほしいか、または研究のために献体にするかを聞かれたので、献体にしてもらうように書類にサインした。保険はHMOまたはPPOのどちらにするかなども聞かれた。UCSFのポスドクの保険については、いつか書きたいと思います。

 遅めの昼を頂いた後に、ボスに会いに行った。ボスは家族について聞いてきたり、サンフランシスコは日本人が多く、Japan Townもあるので、日本食は大丈夫だという話をした。その後、研究室を見て周り、研究室にいるポスドクに自己紹介などをして、その日は宿に帰った。

 渡米してから2週間は時差ボケに悩まされることになった。

2009年11月27日金曜日

イグノーベル賞



 今日はThanksgiving Dayで、アメリカは祝日です。
 
 昨日のブログは堅い話でしたので、今日は息抜きにイグノーベル賞です。
 ウィキペディアで「イグノーベル賞受賞者」で検索して下さい。
  
 受賞理由を読むと笑えます。

2009年11月26日木曜日

歴史という法廷

今回の事業仕分けによる科学研究費の予算削減に関する一連の報道はネットやテレビで拝見しています。

 理化学研究所の野依良治理事長の
 
 「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか」
 
 という名言は、今回の仕分け人の行為に対して、的を得た言葉であると感じています。

 「一番じゃないとダメなのですか」と民主党の方が言われましたが、その人に対して、少し違うかもしれませんが、「与党ではなく、野党じゃダメなんですか」と問いかけると、何と答えるのでしょうかね。

 話が脱線してしまいましたが、ポスドクの立場からの意見として、研究費は多い方が研究は進みやすく、成果も出しやすいというのは正直なところです。研究の世界では一番になるために、日夜研究を行なっています。一番であるから、価値があり、賞賛を受けることが出来ます。

 将来も日本が経済的に豊かな生活をしてくためには、お金を稼ぎ続ける必要があると思いますが、そのお金をどのように稼ぐかということを考えると、研究技術でお金を稼ぐ必要があると思います。現在、日本は車や家電製品などを輸出してお金を稼いでいます。それは日本の車や家電製品に関する技術力が世界で一番だからです。

 研究レベルは、その国の国力に直結していると思います。

 研究はトップを走り続けないと、真似をされて追いつかれます。賃金の安い他国が日本の家電製品の真似をし、安い価格で売れば、日本はお金を稼ぐことは出来ません。日本は常に、新しいものを生み出し続けなければお金を稼げません。先進国の宿命です。製品を開発するための戦略には、特許も必要になると思いますが、一番でなければ、特許は認められません。

 最近、自分が研究する分野の論文を読んでいると、中国の大学がトップレベルのジャーナルに論文を発表しているのを見るようになりました。アメリカで最先端の研究結果を出した研究者が、中国に戻って研究しているようです。中国の研究費の伸び率は凄い勢いのようです。今後も、アメリカ帰りの研究者が、中国からレベルの高い論文を発表していくことは容易に予想できます。

 何故、アメリカの研究費は一番多いのでしょうか?
 何故、中国は研究費を増やしているのでしょうか?

 この理由がわからない人には、野依良治先生の言葉は理解できないと思います。
 
 日本の研究費が減少すれば、喜ぶ国もあると思います。それは日本が自滅するからです。

2009年11月25日水曜日

ノーベル賞

今年のノーベル医学生理学賞の受賞者の1人のElizabeth H. Blackburn博士はUCSFの教授ですね。研究室の同僚とUCSFの中でノーベル賞を取りそうな研究者を挙げると、Blackburn教授が有力候補であり、ノーベル賞が対象になる分野で残ってる研究テーマを考えると、テロメアの仕事が思い浮かぶことから、今回のノーベル医学生理学賞はやっぱりなというところではないでしょうか。

 次に、UCSF内でノーベル賞を受賞する人の予測をすると、山中教授ですね。

 山中教授?と思われる方もおられると思いますが、iPS細胞の京都大学の山中教授はUCSFと提携関係にある J. David Gladstone Institutesにも研究室を持っておられ、UCSFの教授も兼任されています。
興味がある方は、この研究所のホームページを御覧になってください。山中教授の記事がトップで出ています。

2009年11月24日火曜日

このブロクについて

ブログを開設して、今までの内容は渡米のための手続きなどの話で、これから渡米する方には有用かもしれませんが、あまり面白い内容ではないことは、自分でも認識しています。

 最近はポスドク問題が大きく取り扱われたために、研究に縁がない人でも、ポスドクとは研究をしている人というのは知られるようになったと思いますが、ポスドクに対しては悪いイメージが先行しているのではないでしょうか。

 博士課程に進んでも、研究者として生きていくのは厳しいために、研究者の道を諦める若い人達もいる一方で、それでも研究者になりたいという人達もいると思います。

 このブログは研究者という職業に興味がある、若い人達の参考になればいいなと思うところも少しあります。

 基本的には、自分が好きなことなことを書いていきたいと思います。

2009年11月23日月曜日

カリフォルニア大学

UCSFに行くことが、決まってからカリフォルニア大学のことを調べると、カリフォルニア大学にはBerkeley、San Francisco、Davis、Santa Cruz、Santa Barbara、Los Angeles、Irvine、Riverside、San Diego、Mercedの10校があることを知った。
 
 日本人にはUCLA (University of California, Los Angeles)が一番有名だと思います。UCSFで働くようになって、UCB (University of California, Berkeley)がカリフォルニア大学の本部であることを知った。Berkeleyはサンフランシスコの東隣の市にあり、ベイブリッジを渡った、オークランド市にあります。
 
 UCSFは他のカリフォルニア大学とは異なり、学部を持っていなくて大学院だけを持つ大学で、日本で言うところの大学院大学と言ったとこでしょう。UCSFは医学、歯学、薬学、看護からなる医学系の大学院大学である。

 カリフォルニア大学は州立大学であることから、ターミネーターが知事を務めるカリフォルニア州から補助金がカリフォルニア大学に出ていますが、この不況のために、今年の補助金は600億円ほどカットされました。そのため、大学の事務方の職員や教員などスタッフの給料はカットされ、解雇も実施されています。ポスドクの給料も、カットするかもしれないというeメールがDepartmentから来ましたが、ポスドクの給料は多分カットされずに済んだようです。ポスドクの給料の件は後日、書きたいと思います。スタンフォード大学の今年の予算は去年より30%くらい少ないために、既に400人が解雇されたとニュースがあり、今後も解雇を行なうようです。

 カリフォルニア大学の予算がカットされたために、大学側は来年から学部生の授業料を30%値上げすることを決めたため、カリフォルニア大学のあちこちのキャンパスで、学生が授業料値上げに反対して、18日から校舎に立てこもりを行ない、逮捕者などが出ています。地元のテレビニュースでは、サンフランスシスコ近郊のBerkeley、Davis、Santa Cruzの学生の抗議行動を放送しています。

 学生には落ち度がないのに不景気のために、授業料を値上げされるということに、学生が納得いかないという心情は理解できます。日本の旧国立大学が国から交付される予算も、毎年減少しているために、授業料は少しずつ上昇していますが、カリフォルニア大学のような値上げを行なえば、学生は授業料の低い他大学に進学するために、思い切った授業料の値上げはしないと思います。日本の旧国立大学の全校が一斉に、授業料を同じ額に値上げするという奇策にでれば可能でしょうが、それでは独占禁止法にでも、抵触するのでしょうかね。旧国立大学は生き残りのために、独自性を確立する必要があると思いますが、お金がないと策を打つのが難しいのでしょうか。

2009年11月22日日曜日

渡米の準備 番外編

役所に行って、転出届けを出した。転出先の住所は決まっていないので、サンフランシスコとかおおまかな住所を所定の用紙に記入して、窓口に出すと5分くらいで受理された。これで日本の住民票は無くなったと思ったが、あっさりした事務処理に少し戸惑う。

 歯医者で虫歯などのチェックにをしてもらう。しかし、渡米直後に悲劇に襲われる。

 眼科に行って、コンタクトレンズの解約手続きをする。
 
 掛かり付けの内科の医院で、何かあったときのために、簡単な薬を処方してもらう。

 クレジットカードの限度額の引き上げをねらい、少しランクの高いカードを申し込み成功する。

 Skypeの設定を行なう。これで、日本の実家や兄弟と無料で電話が出来る。Skypeはインターネットが出来る環境なら、無料でビデオ電話が出来る。

2009年11月21日土曜日

渡米の準備 後編

ユニオン・バンク・オブ・カリフォルニアというアメリカの銀行で銀行口座を開く。今は、名前が変わって、Union Bankユニオンバンクになった。三菱東京UFJ銀行が、この銀行の株式を半数以上持っているので、三菱東京UFJ銀行の口座を持っていると、日本に居ながらUnion Bankの口座を開くことが出来る。Union Bankはサンフランシスコに本店があり、カリフォルニアを中心に業務を行なっている。三菱東京UFJ銀行の口座を持っていなかったので、口座を開くために、オンラインで申し込み書を取り寄せて、書類に必要事項を記入後、郵送した。通帳とキャッシュカードが届いたので、大学の近くの支店に行って、少しだけお金を入金した。次に、三菱東京UFJ銀行のホームページからUnion Bankの口座の申し込み書を取り寄せて、書類に必要事項を記入後、郵送した。キャッシュカードや仮の小切手などが届く、1ヶ月以内にいくらか入金するように指示があったので、初回の入金用書類を持って、三菱東京UFJ銀行の窓口でUnion Bankの口座に入金した。
 渡米の直前に、まとまったお金を三菱東京UFJ銀行からUnion Bankにお金を送金した。この時に、三菱東京UFJ銀行で英文の預金残高証明書を発行してもらった。Union Bankの口座をオンラインで確認すると、2日後には入金が確認できた。

 Union Bankの口座はオンラインで自分の口座の残高などを確認できる。日本の銀行やゆうちょ銀行の口座は申し込みをすれば、オンラインで自分の口座の残高などを確認できるので、その手続きを行なった。オンラインで書類を作成し郵送して、その書類が送られてきて、オンラインで口座がチェック出来るようにすれば完了。

 ドル紙幣の準備はJTBでやってもらった。1ドルを100枚、5ドルを40枚、10ドルを60枚の合計900ドル分を換金した。もう20ドルは扱っていないとの事だった。窓口で申し込んで3日くらいで受け取れた。全て新しいお札であった。

 トラベラーズチェックを自分のお抱え銀行の支店で申し込んだ。家の近くのこの支店に行く前に、この銀行のホームページでトラベラーズチェックを扱っていると確認したので行ったけど、対応してくれた行員さんは慣れていないのか、窓口で申し込んでから帰るまで、1時間くらいかかった。でも、対応が良かったので満足。「どこに、旅行に行かれるのですか」と聞かれたので、「仕事で2年間、サンフランシスコに行く」と答えると、驚いていた。見た目からあやしい近所の若造が、そんなことを言えば、驚くのも当然かもしれないと思った。

2009年11月20日金曜日

渡米の準備 前編

サンフランシスコまでの航空券をANAのオンラインで購入した。地元の空港から羽田空港に行って、そこからリムジンバスで成田空港に行く予定のために、リムジンバスの会員になり、オンラインでバスを予約した。

アパートが決まるまでの宿として、サンフランシスコでは有名な日本人オーナーのところを2週間で予約した。実際には延長して20日間滞在した。

荷物は日本通運のセルフパック・ミニでMサイズ2箱をオンラインで申し込んだ。オンラインで申し込むときに、ダンボールを持って来てもらう日と、荷物を取りに来てもらう日を選ぶようになっていた。3月7日にダンボールを持って来てもらい、3月14日に荷物を取りに来てもらった。書類は自分で作成した。荷物の制限は1箱30kg。サンフランシスコでの住所は決まっていないので、同じ研究室の人の家を宛先にした。荷物は4月の上旬に到着した。アメリカの日本通運から荷物の宛先にしていた研究室の人の自宅に電話があり、関税の検査のために荷物の発送は、まだわからないとのこと。荷物は5月上旬に自分のアパートに届いた。関税の手数料として25ドルを払った。ダンボールは開けられた形跡はなかった。

グローバルプロテクションで「基本プラン+オプションプラン+緊急一時帰国費用担保特約」を申し込んだ。また、KDDI Mobileの携帯電話を2年間で申し込んだ。

UCSFの医療保険に加入することになっていたが、手続きは1ヶ月以上はかかるかもしれないとのことなので、AIUの旅行保険インフィニティを2ヶ月分申し込んだ。

2009年11月19日木曜日

J-1 ビザの取得

1月中旬に学位審査が問題なく終わり、J-1ビザ取得のための準備に取り掛かった。
参考にしたサイトはJ1-PROTECTION、研究留学ネット、アメリカ大使館のホームページであった。

記憶が定かではないが、思い出せる範囲で書きます。下記が面接時に用意した書類などです。
 オンラインでDS-156、DS-157、DS-158を作成する。このときDS-157の教育歴を記入する欄では、中学校、高校、大学、大学院の4つを書いたが、その教育期間を書く欄ではパソコンで入力しようとすると3行までしか記入できなかったので、そこだけは手書きで書いた。
 申請料金を郵便局のATMで支払い、領収書を手に入れた。
 SEVIS費をオンラインで、クレジットカードで支払い、支払い確認書をプリントアウトした。
 写真は近所の本屋に設置されている700円の証明写真で一応ネクタイをして撮影した。背景は白が要求されているが、700円の証明写真なので、完全な白ではなかったが、問題なかった。ハサミで5cm×5cmになるように整えた。この写真がビザの写真になる。この写真はアメリカ大使館のホームページの指示にしたがって、DS-156の所定の場所に糊で貼付した。
 色が付いていないクリアファイル。  
 EXPACK 500。
 パスポート。
 DS-2019。
 念のために、CVとDS-2019を取得するために作成した3ヶ月前の英文の銀行残高証明書。

 1月の下旬にオンラインで予約をする。福岡が一番近いので、福岡を予約しようとしたが、月に2、3日しかやっていないために、2月の予約は既にいっぱいで取れないので、大阪領事館に切り替えて、1週間後の2月3日の10時に予約した。10時がその日の一番遅い予約時間であった。予約した確認書もプリントアウトして、当日持参した。
 
 2月3日は当日に新幹線で新大阪に9時過ぎに到着し、地下鉄で淀屋橋に行き、大阪市役所の前を通って、領事館に9時30分くらいに到着した。警備員の人に、面接の予約確認書を見せて、道端で5分くらい待たされた。館内に入るときに、ペットボトルは館内に持ち込めないので、その場で飲んで、ペットボトルはゴミ箱に捨てて、傘を預けた。
 
 館内の入ったところで、手荷物検査を受けて、携帯電話を預けた。このときに、預けた荷物のための番号札をもらった。エレベーターで3階に行き、日本人らしい男の人に書類のチェックをしてもらった。書類の不備はDS-2019で、ビザ面接を受けた日付、場所、自分のサインをその場でした。この男の人にされた質問は、「アメリカ滞在中の費用は、○○大学(出身大学)から出ますか?」と聞かれたので、「○○大学からは出ません。」と答えた。最後に、「階段で2階に行って下さい。」と言われたが、階段への入り口がわからず、少し迷った。この男性は、ずっとガムを噛んでいた。これもアメリカンスタイルかと思った。
 
 2階に移動して、4、5人の列の後ろに行き、順番を待った。面接は、並んでいる順番で行なわれ、窓口は2箇所あった。先に面接を受けている人の様子を観察すると、面接官と日本語で話しをしている人もいれば、最初に面接官が日本語で、「英語は話せますか」と尋ねた後は、英語で面接を受けている人もいた。
 
 自分の番が来て、窓口に行き、書類を渡すと、面接官が日本語で、「英語は話せますか」と尋ねたので、得意ではないと日本語で言ったと思う。その後は英語で聞かれたが、ゆっくりしゃべってくれた。質問は「どこに行くのか?」、「何をするのか?」、「あなたの身分は?」、「滞在期間は?」、「滞在費は?」であったので、「University of California, San Franciscoに行く。」、「○○の研究をする」、「オレはPh.D.で、Pstodoctral fellowで働く。」、「2年間」、「アメリカのボスが給料を払う」などのやりとりを行なったが、英語でのやりとりは酷かった。自分の英語のレベルはやばいと改めて思った。最後に、面接官からビザに関する書類をもらい、「がんばってください」と日本語で言われた。そんな英語力で大丈夫かと言われているように感じた。
 
 領事館を出るときに、携帯電話を返してもらって、傘を持って地下鉄駅に向かった。領事館を出て、時間を確認すると10時過ぎであった。面接に来た人が少なかったので、早く終わった。2月6日にはビザが貼られたパスポートなどがEXPACK 500で送られて来た。

2009年11月18日水曜日

DS-2019の取得

2008年10月中旬に、ポスドク先の研究室からeメールで、DS-2019取得の手続きをするようにと、添付ファイルでapplication formが送られてきた。また、CV(履歴書)とパスポートのコピーを送るようにと指示があった。
 
application formにアメリカ滞在時のfinancial supportを記入する欄があり、4項目の種類があった。No1は受け入れ先の大学から支払われる給料、No2はフェローシップなどの奨学金、No3は個人預金、No4はその他であった。自分はNo1の大学から支払われる給料とNo3の個人預金の欄に金額を記入した。No3の個人預金の証明のために銀行で、残高証明を英文で作成してもらった。
 
揃えた書類を、郵便でポスドク先の研究室に発送しようとする時に、先方からDepartmentのポスドクの世話をする担当者のメールアドレスと、この担当者の指示を受けるようにと連絡が来たので、担当者にeメールでコンタクトをすると、application form、CV、パスポートのコピーを添付ファイルで送るように指示があったので、パスポートのコピーをスキャナーで取り込み、eメールで送った。
 
担当者からの返事の内容は、「あなたは学位を持っていないので、あなたをポスドクとして受け入れることは出来ない。junior specialistとしてなら受け入れることが出来る。」というものだった。junior specialistという身分がわからなかったので、ポスドク先のUCSFのホームページで探すと、UCSFで学位審査に合格した大学院生が、次のステップであるポスドクを他の機関で行なうまで、UCSFに所属している人の身分であることがわかった。事情を指導教官に伝えると、「ポスドクとして渡米するべきで、3ヶ月や半年くらい渡米が遅れても、人生には影響ない」という内容のことを言われた。
 
渡米は4月ではないのかと考えていると、ポスドク先のボスが間に入り、1月中までに学位が取得出来るなら、ポスドクとして受け入れるという内容のメールが送られてきた。指導教官に内容を伝えて、学務課の担当者に事情を説明すると、「1月に学位審査を行ない、合格できれば、学位取得は可能である」という内容の返事をもらった。また、学務課の担当者に学位取得見込み証明書の発行依頼すると、研究科長の名前で証明書を発行してくれた。この証明書をスキャナーで取り込み、Departmentのポスドク担当者にeメールで送り、ポスドク先のボスにも学位取得可能であると伝えた。
 
その後、Departmentのポスドク担当者とeメールで数回のやりとりを行ない、12月の下旬にはDS-2019が自宅に送られきた。また、雇用証明書関係の書類が添付ファイルで送られて来て、ポスドク先のボスのサインが入った雇用承諾書の書類をプリントアウトし、自分のサインをし、日付を12/31/08と記入して、スキャナーで取り込み、Departmentのポスドク担当者にeメールで送り返した。

2009年11月17日火曜日

ポスドク先の決定

2008年7月の中旬に、昼飯の休憩時に研究室の自分のデスクでパソコンをしていると、大学院の指導教官の先生がやって来て、「もう、論文もアクセプトされ、学位取得の要件を満たしたので、今年度で卒業し、アメリカに行ったらどうだ」と言う内容の事を言われ、ポスドクとしての働き口は共同研究していたサンフランシスコの研究室を推薦された。「アメリカに行くことに問題はないか。御両親は大丈夫か」などを聞かれ、「ありません」と答えると、「じゃー、連絡をしてみる」と言われた。

その日の夜8時くらいに、実験室の電話が鳴り、電話にでようと電話機のディスプレイを見ると、電話番号が以上に長く、イタズラ電話かと思い電話にでると、「サンフランシスコの○○です。先生(指導教官)はいらっしゃいますか」と言われた。この電話はサンフランシスコでお世話になる研究室で、ジュニアファカルティーとして働いている日本人の奥さんからの電話であった。直ぐに、指導教官の電話に転送し、エライことになったと思い直ぐに家に帰った。
 
次の日に、指導教官からメールで履歴書を書くようにと、ジュニアファカルティーの先生の英語の履歴書を見本として添付されていた。見本の履歴書を参考にして自分の履歴書を書き、指導教官に送り返した。
 
そして、アメリカの話が出て3日目に、指導教官がやって来て、サンフランシスコの研究室の教授が受け入れてくれると返事があったと言われ、アメリカでのポスドク先が決まった。

2009年11月16日月曜日

ブログ開設

大学院で学位取得後に、サンフランシスコにポスドクとして来た駆け出し研究者が生活と研究活動を記録し、他の方に参考になればと思いブログを開設しました。