2009年11月30日月曜日

アパートを決める

アメリカに来て一番重要なことは、家を確保することなので、最初の仕事はアパートを探すことであった。
 
 サンフランシスコのアパートは渡米前に聞いていた通り、寝室1部屋とリビングからなる1 bed room の家賃は低くて1200ドルという感じであった。家賃には水道代とゴミ代が含まれているのが普通のようである。台所には冷蔵庫が付いているのが一般的で、電子レンジもついてくるところもあるようだ。

 六人目の男はcraigslistという掲示板でアパート情報を見て、3件の大家に電話でアポイントを取って、アパートを実際に見学して、その場で申し込み書を書いて大家に渡した。3件の大家全てがアパートを貸してくれると言ってきたが、一番気に入ったところのアパートを借りることにした。申し込み者が数人いたらしいが、自分に貸してくれるというので、手付金として200ドルを払うように言って来たので、アパートに行って、手付金を払った。
 その時に、4月分の家賃とdeposit(頭金)込みの3200ドルをcashier checkで払うように要求されたので、Japan townにあるUnion Bankでcashier checkを作ってもらった。Union Bankでは日本人の行員がいる支店があるので、日本語でお願いが出来るので楽である。cashier checkとは発行する銀行が額面のお金を保証し、受取人の名前が記入されている小切手のようなものである。
 また、六人目の男の雇い主であるボスの手紙も持って来るように要求された。手紙には六人目の男の年収、ボスの名前と電話番号が書いてあり、手紙の用紙はletterheadであることが要求されたので、ボスに書いてもらった。letterheadとは大学や企業の名前やロゴが入っている用紙のことである。

 実際に借りるアパートで大家の手書きの契約書にサインし、cashier checkとボスからの手紙を渡して契約が成立した。1ヶ月の家賃は1400ドルの1 bed roomを1年契約した。家の鍵をもらい、手付金の200ドルは返してもらった。借りたアパートには、冷蔵庫と電子レンジが付いていた。

サンフランシスコでの住みかも決まり、安心した六人目の男であった。

2009年11月29日日曜日

霧とタンポポ

渡米して間もない日の14時頃に、空を見上げると白い煙のようなものが見えて、だんだんとその煙の量が多くなってきたので、「誰だ、ゴミを燃やしているのは?」と思ったが、良く観察すると、煙ではなく、霧であることがわかった。

 サンフランシスコは霧が有名であるが、霧は早朝や夜に出るものという感覚なので、霧が昼から出るとは予想外であった。

 8月や9月は朝、家を出ると霧が濃かった。また、朝は霧がなくても、昼を過ぎると霧が出て、霧の中を歩くこともあった。

 8月や9月は日本の感覚だと夏であるが、今年のサンフランシスコの8月と9月は渡米して来た4月よりも寒いのではないかという日が多かった。10月のサンフランシスコは年間で一番気温が高いと聞いていたが、その通りであった。

 11月になると気温は下がり肌寒くなったが、4月から11月まで、ずっと道端にはタンポポが咲いてた。これはサンフランシスコの気温の変化が小さいことの象徴のように感じた。

2009年11月28日土曜日

渡米の日

4月のある日、成田空港からサンフランシスコ国際空港に行くANA便に乗り、9時間のフライトは映画を見るなどして楽しんだために、一睡も出来ずにサンフランシスコの地を踏んだ。

 研究室の方が迎えに来て下さり、その方の車でUCSFの本部があるParnassusに行き、SISS (Services International Students & Scholars)という部署に行って、簡単な書類書きを行なってUCSFに来たことを伝えた。

 次に、DS-2019取得のために書類のやり取りをしたDepartmentの担当者のところに行き、2時間くらい書類にサインをするなどして、いろいろな説明を受けた。自分が死んだときの財産は誰に上げるとか、死んだときの遺体は日本に送ってほしいか、または研究のために献体にするかを聞かれたので、献体にしてもらうように書類にサインした。保険はHMOまたはPPOのどちらにするかなども聞かれた。UCSFのポスドクの保険については、いつか書きたいと思います。

 遅めの昼を頂いた後に、ボスに会いに行った。ボスは家族について聞いてきたり、サンフランシスコは日本人が多く、Japan Townもあるので、日本食は大丈夫だという話をした。その後、研究室を見て周り、研究室にいるポスドクに自己紹介などをして、その日は宿に帰った。

 渡米してから2週間は時差ボケに悩まされることになった。

2009年11月27日金曜日

イグノーベル賞



 今日はThanksgiving Dayで、アメリカは祝日です。
 
 昨日のブログは堅い話でしたので、今日は息抜きにイグノーベル賞です。
 ウィキペディアで「イグノーベル賞受賞者」で検索して下さい。
  
 受賞理由を読むと笑えます。

2009年11月26日木曜日

歴史という法廷

今回の事業仕分けによる科学研究費の予算削減に関する一連の報道はネットやテレビで拝見しています。

 理化学研究所の野依良治理事長の
 
 「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか」
 
 という名言は、今回の仕分け人の行為に対して、的を得た言葉であると感じています。

 「一番じゃないとダメなのですか」と民主党の方が言われましたが、その人に対して、少し違うかもしれませんが、「与党ではなく、野党じゃダメなんですか」と問いかけると、何と答えるのでしょうかね。

 話が脱線してしまいましたが、ポスドクの立場からの意見として、研究費は多い方が研究は進みやすく、成果も出しやすいというのは正直なところです。研究の世界では一番になるために、日夜研究を行なっています。一番であるから、価値があり、賞賛を受けることが出来ます。

 将来も日本が経済的に豊かな生活をしてくためには、お金を稼ぎ続ける必要があると思いますが、そのお金をどのように稼ぐかということを考えると、研究技術でお金を稼ぐ必要があると思います。現在、日本は車や家電製品などを輸出してお金を稼いでいます。それは日本の車や家電製品に関する技術力が世界で一番だからです。

 研究レベルは、その国の国力に直結していると思います。

 研究はトップを走り続けないと、真似をされて追いつかれます。賃金の安い他国が日本の家電製品の真似をし、安い価格で売れば、日本はお金を稼ぐことは出来ません。日本は常に、新しいものを生み出し続けなければお金を稼げません。先進国の宿命です。製品を開発するための戦略には、特許も必要になると思いますが、一番でなければ、特許は認められません。

 最近、自分が研究する分野の論文を読んでいると、中国の大学がトップレベルのジャーナルに論文を発表しているのを見るようになりました。アメリカで最先端の研究結果を出した研究者が、中国に戻って研究しているようです。中国の研究費の伸び率は凄い勢いのようです。今後も、アメリカ帰りの研究者が、中国からレベルの高い論文を発表していくことは容易に予想できます。

 何故、アメリカの研究費は一番多いのでしょうか?
 何故、中国は研究費を増やしているのでしょうか?

 この理由がわからない人には、野依良治先生の言葉は理解できないと思います。
 
 日本の研究費が減少すれば、喜ぶ国もあると思います。それは日本が自滅するからです。

2009年11月25日水曜日

ノーベル賞

今年のノーベル医学生理学賞の受賞者の1人のElizabeth H. Blackburn博士はUCSFの教授ですね。研究室の同僚とUCSFの中でノーベル賞を取りそうな研究者を挙げると、Blackburn教授が有力候補であり、ノーベル賞が対象になる分野で残ってる研究テーマを考えると、テロメアの仕事が思い浮かぶことから、今回のノーベル医学生理学賞はやっぱりなというところではないでしょうか。

 次に、UCSF内でノーベル賞を受賞する人の予測をすると、山中教授ですね。

 山中教授?と思われる方もおられると思いますが、iPS細胞の京都大学の山中教授はUCSFと提携関係にある J. David Gladstone Institutesにも研究室を持っておられ、UCSFの教授も兼任されています。
興味がある方は、この研究所のホームページを御覧になってください。山中教授の記事がトップで出ています。

2009年11月24日火曜日

このブロクについて

ブログを開設して、今までの内容は渡米のための手続きなどの話で、これから渡米する方には有用かもしれませんが、あまり面白い内容ではないことは、自分でも認識しています。

 最近はポスドク問題が大きく取り扱われたために、研究に縁がない人でも、ポスドクとは研究をしている人というのは知られるようになったと思いますが、ポスドクに対しては悪いイメージが先行しているのではないでしょうか。

 博士課程に進んでも、研究者として生きていくのは厳しいために、研究者の道を諦める若い人達もいる一方で、それでも研究者になりたいという人達もいると思います。

 このブログは研究者という職業に興味がある、若い人達の参考になればいいなと思うところも少しあります。

 基本的には、自分が好きなことなことを書いていきたいと思います。

2009年11月23日月曜日

カリフォルニア大学

UCSFに行くことが、決まってからカリフォルニア大学のことを調べると、カリフォルニア大学にはBerkeley、San Francisco、Davis、Santa Cruz、Santa Barbara、Los Angeles、Irvine、Riverside、San Diego、Mercedの10校があることを知った。
 
 日本人にはUCLA (University of California, Los Angeles)が一番有名だと思います。UCSFで働くようになって、UCB (University of California, Berkeley)がカリフォルニア大学の本部であることを知った。Berkeleyはサンフランシスコの東隣の市にあり、ベイブリッジを渡った、オークランド市にあります。
 
 UCSFは他のカリフォルニア大学とは異なり、学部を持っていなくて大学院だけを持つ大学で、日本で言うところの大学院大学と言ったとこでしょう。UCSFは医学、歯学、薬学、看護からなる医学系の大学院大学である。

 カリフォルニア大学は州立大学であることから、ターミネーターが知事を務めるカリフォルニア州から補助金がカリフォルニア大学に出ていますが、この不況のために、今年の補助金は600億円ほどカットされました。そのため、大学の事務方の職員や教員などスタッフの給料はカットされ、解雇も実施されています。ポスドクの給料も、カットするかもしれないというeメールがDepartmentから来ましたが、ポスドクの給料は多分カットされずに済んだようです。ポスドクの給料の件は後日、書きたいと思います。スタンフォード大学の今年の予算は去年より30%くらい少ないために、既に400人が解雇されたとニュースがあり、今後も解雇を行なうようです。

 カリフォルニア大学の予算がカットされたために、大学側は来年から学部生の授業料を30%値上げすることを決めたため、カリフォルニア大学のあちこちのキャンパスで、学生が授業料値上げに反対して、18日から校舎に立てこもりを行ない、逮捕者などが出ています。地元のテレビニュースでは、サンフランスシスコ近郊のBerkeley、Davis、Santa Cruzの学生の抗議行動を放送しています。

 学生には落ち度がないのに不景気のために、授業料を値上げされるということに、学生が納得いかないという心情は理解できます。日本の旧国立大学が国から交付される予算も、毎年減少しているために、授業料は少しずつ上昇していますが、カリフォルニア大学のような値上げを行なえば、学生は授業料の低い他大学に進学するために、思い切った授業料の値上げはしないと思います。日本の旧国立大学の全校が一斉に、授業料を同じ額に値上げするという奇策にでれば可能でしょうが、それでは独占禁止法にでも、抵触するのでしょうかね。旧国立大学は生き残りのために、独自性を確立する必要があると思いますが、お金がないと策を打つのが難しいのでしょうか。

2009年11月22日日曜日

渡米の準備 番外編

役所に行って、転出届けを出した。転出先の住所は決まっていないので、サンフランシスコとかおおまかな住所を所定の用紙に記入して、窓口に出すと5分くらいで受理された。これで日本の住民票は無くなったと思ったが、あっさりした事務処理に少し戸惑う。

 歯医者で虫歯などのチェックにをしてもらう。しかし、渡米直後に悲劇に襲われる。

 眼科に行って、コンタクトレンズの解約手続きをする。
 
 掛かり付けの内科の医院で、何かあったときのために、簡単な薬を処方してもらう。

 クレジットカードの限度額の引き上げをねらい、少しランクの高いカードを申し込み成功する。

 Skypeの設定を行なう。これで、日本の実家や兄弟と無料で電話が出来る。Skypeはインターネットが出来る環境なら、無料でビデオ電話が出来る。

2009年11月21日土曜日

渡米の準備 後編

ユニオン・バンク・オブ・カリフォルニアというアメリカの銀行で銀行口座を開く。今は、名前が変わって、Union Bankユニオンバンクになった。三菱東京UFJ銀行が、この銀行の株式を半数以上持っているので、三菱東京UFJ銀行の口座を持っていると、日本に居ながらUnion Bankの口座を開くことが出来る。Union Bankはサンフランシスコに本店があり、カリフォルニアを中心に業務を行なっている。三菱東京UFJ銀行の口座を持っていなかったので、口座を開くために、オンラインで申し込み書を取り寄せて、書類に必要事項を記入後、郵送した。通帳とキャッシュカードが届いたので、大学の近くの支店に行って、少しだけお金を入金した。次に、三菱東京UFJ銀行のホームページからUnion Bankの口座の申し込み書を取り寄せて、書類に必要事項を記入後、郵送した。キャッシュカードや仮の小切手などが届く、1ヶ月以内にいくらか入金するように指示があったので、初回の入金用書類を持って、三菱東京UFJ銀行の窓口でUnion Bankの口座に入金した。
 渡米の直前に、まとまったお金を三菱東京UFJ銀行からUnion Bankにお金を送金した。この時に、三菱東京UFJ銀行で英文の預金残高証明書を発行してもらった。Union Bankの口座をオンラインで確認すると、2日後には入金が確認できた。

 Union Bankの口座はオンラインで自分の口座の残高などを確認できる。日本の銀行やゆうちょ銀行の口座は申し込みをすれば、オンラインで自分の口座の残高などを確認できるので、その手続きを行なった。オンラインで書類を作成し郵送して、その書類が送られてきて、オンラインで口座がチェック出来るようにすれば完了。

 ドル紙幣の準備はJTBでやってもらった。1ドルを100枚、5ドルを40枚、10ドルを60枚の合計900ドル分を換金した。もう20ドルは扱っていないとの事だった。窓口で申し込んで3日くらいで受け取れた。全て新しいお札であった。

 トラベラーズチェックを自分のお抱え銀行の支店で申し込んだ。家の近くのこの支店に行く前に、この銀行のホームページでトラベラーズチェックを扱っていると確認したので行ったけど、対応してくれた行員さんは慣れていないのか、窓口で申し込んでから帰るまで、1時間くらいかかった。でも、対応が良かったので満足。「どこに、旅行に行かれるのですか」と聞かれたので、「仕事で2年間、サンフランシスコに行く」と答えると、驚いていた。見た目からあやしい近所の若造が、そんなことを言えば、驚くのも当然かもしれないと思った。

2009年11月20日金曜日

渡米の準備 前編

サンフランシスコまでの航空券をANAのオンラインで購入した。地元の空港から羽田空港に行って、そこからリムジンバスで成田空港に行く予定のために、リムジンバスの会員になり、オンラインでバスを予約した。

アパートが決まるまでの宿として、サンフランシスコでは有名な日本人オーナーのところを2週間で予約した。実際には延長して20日間滞在した。

荷物は日本通運のセルフパック・ミニでMサイズ2箱をオンラインで申し込んだ。オンラインで申し込むときに、ダンボールを持って来てもらう日と、荷物を取りに来てもらう日を選ぶようになっていた。3月7日にダンボールを持って来てもらい、3月14日に荷物を取りに来てもらった。書類は自分で作成した。荷物の制限は1箱30kg。サンフランシスコでの住所は決まっていないので、同じ研究室の人の家を宛先にした。荷物は4月の上旬に到着した。アメリカの日本通運から荷物の宛先にしていた研究室の人の自宅に電話があり、関税の検査のために荷物の発送は、まだわからないとのこと。荷物は5月上旬に自分のアパートに届いた。関税の手数料として25ドルを払った。ダンボールは開けられた形跡はなかった。

グローバルプロテクションで「基本プラン+オプションプラン+緊急一時帰国費用担保特約」を申し込んだ。また、KDDI Mobileの携帯電話を2年間で申し込んだ。

UCSFの医療保険に加入することになっていたが、手続きは1ヶ月以上はかかるかもしれないとのことなので、AIUの旅行保険インフィニティを2ヶ月分申し込んだ。

2009年11月19日木曜日

J-1 ビザの取得

1月中旬に学位審査が問題なく終わり、J-1ビザ取得のための準備に取り掛かった。
参考にしたサイトはJ1-PROTECTION、研究留学ネット、アメリカ大使館のホームページであった。

記憶が定かではないが、思い出せる範囲で書きます。下記が面接時に用意した書類などです。
 オンラインでDS-156、DS-157、DS-158を作成する。このときDS-157の教育歴を記入する欄では、中学校、高校、大学、大学院の4つを書いたが、その教育期間を書く欄ではパソコンで入力しようとすると3行までしか記入できなかったので、そこだけは手書きで書いた。
 申請料金を郵便局のATMで支払い、領収書を手に入れた。
 SEVIS費をオンラインで、クレジットカードで支払い、支払い確認書をプリントアウトした。
 写真は近所の本屋に設置されている700円の証明写真で一応ネクタイをして撮影した。背景は白が要求されているが、700円の証明写真なので、完全な白ではなかったが、問題なかった。ハサミで5cm×5cmになるように整えた。この写真がビザの写真になる。この写真はアメリカ大使館のホームページの指示にしたがって、DS-156の所定の場所に糊で貼付した。
 色が付いていないクリアファイル。  
 EXPACK 500。
 パスポート。
 DS-2019。
 念のために、CVとDS-2019を取得するために作成した3ヶ月前の英文の銀行残高証明書。

 1月の下旬にオンラインで予約をする。福岡が一番近いので、福岡を予約しようとしたが、月に2、3日しかやっていないために、2月の予約は既にいっぱいで取れないので、大阪領事館に切り替えて、1週間後の2月3日の10時に予約した。10時がその日の一番遅い予約時間であった。予約した確認書もプリントアウトして、当日持参した。
 
 2月3日は当日に新幹線で新大阪に9時過ぎに到着し、地下鉄で淀屋橋に行き、大阪市役所の前を通って、領事館に9時30分くらいに到着した。警備員の人に、面接の予約確認書を見せて、道端で5分くらい待たされた。館内に入るときに、ペットボトルは館内に持ち込めないので、その場で飲んで、ペットボトルはゴミ箱に捨てて、傘を預けた。
 
 館内の入ったところで、手荷物検査を受けて、携帯電話を預けた。このときに、預けた荷物のための番号札をもらった。エレベーターで3階に行き、日本人らしい男の人に書類のチェックをしてもらった。書類の不備はDS-2019で、ビザ面接を受けた日付、場所、自分のサインをその場でした。この男の人にされた質問は、「アメリカ滞在中の費用は、○○大学(出身大学)から出ますか?」と聞かれたので、「○○大学からは出ません。」と答えた。最後に、「階段で2階に行って下さい。」と言われたが、階段への入り口がわからず、少し迷った。この男性は、ずっとガムを噛んでいた。これもアメリカンスタイルかと思った。
 
 2階に移動して、4、5人の列の後ろに行き、順番を待った。面接は、並んでいる順番で行なわれ、窓口は2箇所あった。先に面接を受けている人の様子を観察すると、面接官と日本語で話しをしている人もいれば、最初に面接官が日本語で、「英語は話せますか」と尋ねた後は、英語で面接を受けている人もいた。
 
 自分の番が来て、窓口に行き、書類を渡すと、面接官が日本語で、「英語は話せますか」と尋ねたので、得意ではないと日本語で言ったと思う。その後は英語で聞かれたが、ゆっくりしゃべってくれた。質問は「どこに行くのか?」、「何をするのか?」、「あなたの身分は?」、「滞在期間は?」、「滞在費は?」であったので、「University of California, San Franciscoに行く。」、「○○の研究をする」、「オレはPh.D.で、Pstodoctral fellowで働く。」、「2年間」、「アメリカのボスが給料を払う」などのやりとりを行なったが、英語でのやりとりは酷かった。自分の英語のレベルはやばいと改めて思った。最後に、面接官からビザに関する書類をもらい、「がんばってください」と日本語で言われた。そんな英語力で大丈夫かと言われているように感じた。
 
 領事館を出るときに、携帯電話を返してもらって、傘を持って地下鉄駅に向かった。領事館を出て、時間を確認すると10時過ぎであった。面接に来た人が少なかったので、早く終わった。2月6日にはビザが貼られたパスポートなどがEXPACK 500で送られて来た。

2009年11月18日水曜日

DS-2019の取得

2008年10月中旬に、ポスドク先の研究室からeメールで、DS-2019取得の手続きをするようにと、添付ファイルでapplication formが送られてきた。また、CV(履歴書)とパスポートのコピーを送るようにと指示があった。
 
application formにアメリカ滞在時のfinancial supportを記入する欄があり、4項目の種類があった。No1は受け入れ先の大学から支払われる給料、No2はフェローシップなどの奨学金、No3は個人預金、No4はその他であった。自分はNo1の大学から支払われる給料とNo3の個人預金の欄に金額を記入した。No3の個人預金の証明のために銀行で、残高証明を英文で作成してもらった。
 
揃えた書類を、郵便でポスドク先の研究室に発送しようとする時に、先方からDepartmentのポスドクの世話をする担当者のメールアドレスと、この担当者の指示を受けるようにと連絡が来たので、担当者にeメールでコンタクトをすると、application form、CV、パスポートのコピーを添付ファイルで送るように指示があったので、パスポートのコピーをスキャナーで取り込み、eメールで送った。
 
担当者からの返事の内容は、「あなたは学位を持っていないので、あなたをポスドクとして受け入れることは出来ない。junior specialistとしてなら受け入れることが出来る。」というものだった。junior specialistという身分がわからなかったので、ポスドク先のUCSFのホームページで探すと、UCSFで学位審査に合格した大学院生が、次のステップであるポスドクを他の機関で行なうまで、UCSFに所属している人の身分であることがわかった。事情を指導教官に伝えると、「ポスドクとして渡米するべきで、3ヶ月や半年くらい渡米が遅れても、人生には影響ない」という内容のことを言われた。
 
渡米は4月ではないのかと考えていると、ポスドク先のボスが間に入り、1月中までに学位が取得出来るなら、ポスドクとして受け入れるという内容のメールが送られてきた。指導教官に内容を伝えて、学務課の担当者に事情を説明すると、「1月に学位審査を行ない、合格できれば、学位取得は可能である」という内容の返事をもらった。また、学務課の担当者に学位取得見込み証明書の発行依頼すると、研究科長の名前で証明書を発行してくれた。この証明書をスキャナーで取り込み、Departmentのポスドク担当者にeメールで送り、ポスドク先のボスにも学位取得可能であると伝えた。
 
その後、Departmentのポスドク担当者とeメールで数回のやりとりを行ない、12月の下旬にはDS-2019が自宅に送られきた。また、雇用証明書関係の書類が添付ファイルで送られて来て、ポスドク先のボスのサインが入った雇用承諾書の書類をプリントアウトし、自分のサインをし、日付を12/31/08と記入して、スキャナーで取り込み、Departmentのポスドク担当者にeメールで送り返した。

2009年11月17日火曜日

ポスドク先の決定

2008年7月の中旬に、昼飯の休憩時に研究室の自分のデスクでパソコンをしていると、大学院の指導教官の先生がやって来て、「もう、論文もアクセプトされ、学位取得の要件を満たしたので、今年度で卒業し、アメリカに行ったらどうだ」と言う内容の事を言われ、ポスドクとしての働き口は共同研究していたサンフランシスコの研究室を推薦された。「アメリカに行くことに問題はないか。御両親は大丈夫か」などを聞かれ、「ありません」と答えると、「じゃー、連絡をしてみる」と言われた。

その日の夜8時くらいに、実験室の電話が鳴り、電話にでようと電話機のディスプレイを見ると、電話番号が以上に長く、イタズラ電話かと思い電話にでると、「サンフランシスコの○○です。先生(指導教官)はいらっしゃいますか」と言われた。この電話はサンフランシスコでお世話になる研究室で、ジュニアファカルティーとして働いている日本人の奥さんからの電話であった。直ぐに、指導教官の電話に転送し、エライことになったと思い直ぐに家に帰った。
 
次の日に、指導教官からメールで履歴書を書くようにと、ジュニアファカルティーの先生の英語の履歴書を見本として添付されていた。見本の履歴書を参考にして自分の履歴書を書き、指導教官に送り返した。
 
そして、アメリカの話が出て3日目に、指導教官がやって来て、サンフランシスコの研究室の教授が受け入れてくれると返事があったと言われ、アメリカでのポスドク先が決まった。

2009年11月16日月曜日

ブログ開設

大学院で学位取得後に、サンフランシスコにポスドクとして来た駆け出し研究者が生活と研究活動を記録し、他の方に参考になればと思いブログを開設しました。